日本海と、美しい湖沼に囲まれた温泉のある新潟県上越市大潟区 そして 夕日が映え 心なごむ潮騒の街

伝説

潟町の西念寺は、昔は九戸浜村にありました。この寺のあった所は、現在海の中と思われますが、この近辺のことをお寺屋と、今でも呼んでいます。

そのころの御手洗池は、九戸浜と潟町にまたがっていました。けれども、九戸浜の方が広かったためでしょうか、九戸の諏訪神社のお手洗い池といわれていました。これが「御手洗池」という名前の起こりなのです。

ところで、潟町に宿場ができたので、西念寺が九戸浜から潟町へ移ることになり、この時この御手洗池を管理するためにもらってきたといわれています。けれども、西念寺はこれを管理するのに大変困り、それを潟町のオモダチに任せるようになりました。

そのころの池は、九戸の諏訪神社の近くまで広がっていました。そして、そこに木造りの御神体が安置されており、その御神体には金の目玉がはめこんでありました。

ある晩のことです。一人の若者がこの御神体の金の目玉を盗みに、こっそりとお宮の中に入りました。そして、用意していたのみで、コツコツと目玉をえぐり出し、やっとの思いで一つだけ取り出しました。けれども、もう一つの目玉はなかなか取れませんでした。

そのうち、夜が明けかかったので、御神体を背負って逃げ出しました。 若者が逃げる途中、御手洗池のそばを通りかかりました。するとどうでしょう。御手洗池の水がみるみる増えてきて、若者に押し寄せてきました。


若者は必死になって逃げよう としましたが、御神体を背負っているので、思うように足が進みません。とう とう、御神体を背負ったまま、池の水に巻き込まれて沈んでしまいました。

その時までは御手洗池の鮒も他の池の鮒と同じように、普通の鮒でしたが、この若者が御神体を背負い、池の中に沈んでからは、片目鮒になってしまったのです。

片目鮒というと、目が片方にしかないように聞こえますが、目はちゃんと両方にあるのです。けれども片目はうつろで見えないのです。これは御神体が片目のまま沈んでしまわれたので、鮒も片目になったのだろうというのです。

御手洗池は明治の世になり、神明宮の財産になりましたが、明治30(1897)年に潟町駅を作るために埋め立てられ、三分の一くらいの大きさになっしまいました。けれどもとても深く、溺れても網にかかったことはなく、長い間「すじんこ(かっぱ)がいる」とも言われてきました。

 


 

八代将軍吉宗公の享保年代の初期の頃、旱魃と長雨のため、上越地方は大変な凶作となりました。そのため、農民の生活はどん底に落ち、餓死者、一家離散などの惨状がいたる所に続出しました。特に潟町地方の悲惨な姿は目を当てられないほどのものでした。庄屋達がこの窮状を幾度となく川浦代官に訴え、「この苦しみを救ってください 。」とお願いしましたが、顧みられませんでした。

当時、潟町をはじめ犀浜一帯は幕府直轄の領地で、川浦代官所の支配地であったため、高田の殿様とは無関係だったので、高田藩の助けを受けることもできない状況でした。

そうこうしているうちに、潟町の田んぼは昔の大潟そのままの湖と化して稲穂を見ることすらできない状態になってしまいました。

潟町の庄屋、八木十右衛門が意を決して、数度にわたり代官所へ救助を願い出ましたが「駄目だ。」の一点張りで、すがる藁さえなくなってしまいました。

その頃でした。羽州酒田港から、米俵を満載した船が、今町(今の直江津)の港に入っておりました。その船(弁財船)の船頭と八木十右衛門が、たまたま出会いました。

八木十右衛門は、船頭に潟町一帯の惨状をつぶさに話をし、何とか助けてほしいと頼みました。話を聞いた船頭、亀田伊兵衛なる人は「今は大坂へ向かうところなので、すぐには駄目だが、酒田へ帰って、米を集めて運んできましょう。」と約束してくれました。しかし潟町の人々は、その話を半信半疑で聞いておりました。

ところが、幾日後のある日、潟町の沖合に弁財船が姿を現しました。米俵を満載して潟町へ運んで来でくれたのでした。

酒田へ帰った亀田伊兵衛が、酒田の豪商達を説いてまわり、米を集めてくれたものでした。米俵の有り難みはいうまでもなく、涙を流して喜び合いました。

早速村役人衆が集まって相談し、感謝の気持ちを込めたささやかな宴を開きました。その宴席で、亀田伊兵衛が、つと立ち上がり「酒田高野の浜、米ならよかろう」と朗々と歌いながら踊り始めました。

その所作は、いかにも優美であり、調和がよくとれているので、人々は見とれているばかりでしたが、やがてそのうち、一人二人と立ち上がり、見よう見まねで踊り始めたのでした。

潟町において弁財船の米大舟踊りが踊られたのは実にこの時が始まりでした。その後一度、亀田伊兵衛は酒田へ帰りましたが、よほど潟町の人情が気に入ったのでしょうか、ついに妻子を連れて潟町に永住することになり、現潟町二区小山接骨院の裏に居を構えました。

そして、春秋の神明宮のお祭りには陣頭に立って、青年衆にこの米大舟踊りを教えました。それから後のことですが、伊兵衛は大病にかかり、寛延3(1750)年の6月2日、帰らぬ人となりました。

柿崎の善導寺住職さんによって葬儀が営まれ、潟町の花光庵の墓地に手厚く葬られました。伊兵衛には、三人の子供がおりました。上の二人は早世しましたが、末子の弥五衛門は文政3年(1820)に亡くなっております。

昭和37年7月3日、潟町米大舟保存会では、永く伊兵衛の遺徳を偲ぶため、潟町公民館前に彰徳碑を建てました。またお墓は昭和47年、花光庵から潟町西念寺の墓地に移さし変えられました。

現在、米大舟は潟町と土底浜の地区のお宮さんの秋祭りに盛大に踊り継がれております。

 

 

 

 

 

明和2(1765)年の秋のことです。潟町にたどり着いた一人の巡礼の僧がいました。そして去りもしないで数日を送ったある霜の降りた朝、死体となって発見されました。

哀れに思った潟町の人達び街道の一隅に埋葬し碑を建てて弔いました。それがら四、五年後のことです。柿崎町の猿毛の石工が一体の地蔵様を彫刻しました。それは、大変立派な出来栄えでした。

ある夜、地蔵様が石工のまくら元に現れ、「自分の安住の地は、西の方の浜辺にるからそこに移すように。」とお告げになられました。

石工は潟町を訪れ、そのことを話したところ、早速、潟町の人によって地蔵様が運ばれ、巡礼の碑の上に安置しました。

時は過ぎ、文政2(1819)年、潟町で、108軒を全焼する大火事がありました。この火事の前夜、一人の坊さんが、潟町中を「火事があるから気をつけろよー。」と、連呼して走り回っていましたが、いつしか坊さんの姿が消えていました。

   また、火事の中やはり1人の坊さんが、屋根の上で火の粉をかぶりながら、衣を振り回し火を消していましたが、いつしか姿が消えたのでした。その時、誰やらが、「あの坊さんは上町(今の潟町一区)の地蔵様のようだが・・・。」と言いました。人々は半信半疑でお堂へ行ってみたところ、これは不思議なことに、お地蔵様は目にいっぱいの涙をたたえ、全身が黒こげとなっており、その上、かも瓜の種(やけどの薬)が体中にびっしりついておりました。

人々はすっかり感激し、合掌礼拝しました。 以来、防火地蔵尊と呼んで崇拝し、地元の人は毎年四月と九月のお祭礼を怠ることなく努めております。 また祭礼日のみならず、日々お参りに訪れる人々数多く、深く信仰されております。




 

昔から、鵜ノ池にはカッパ(すじんこ)が住んでいると言い伝えられていました。昔は、この鵜ノ池は近くの村々の子供にとっては、この上もない水泳ぎの場所でした。けれどもカッパが出るというので、大人の人は子供たちに「いいか、池に泳ぎに行ってもいいが、決して沖へ出るなよ。沖の深い所にさもカッパが住んでいて、お尻の穴から肝をとられるぞ。」と言って聞かせていました。

こんな話をいつも聞いている子供たちは、浅瀬で泳いでいましたが、決して沖へ出て泳ごうとしませんでした。村人たちの話では、カッパは人間の肝がないと生きていけないが、ふだんは鵜ノ池にたくさん生えている、じゅんさいを食べて生きているのだ、ということでした。

この鵜ノ池には馬洗いの場があり、農家の人たちは朝と夕方、馬の疲れを直すためこの馬洗い場へ馬を連れて行き、体を馬タワシでこすって洗ってやり、水浴をさせるのが常でした。

ある日の夕方でした。山鵜島の若者がこの馬洗い場人馬を連れて行き、一生懸命馬の体を洗ってやっていました。するとどうしたことか急に馬が騒ぎ出したのです。おかしいなあと思い、「ドウ、ドウ、ドウ、ドウ」と言いながら、馬を前に少し引いてみるとどうでしょう。馬の尾を一匹のカッパがしっかりと握ったまま姿を現しました。

若者は勇気を出して、「このやろう、ひでえやろうだ。うんと痛い目にあわせてやろう。」と言いながら、カッパを取って押さえ、カッパの頭についている皿をなぐつて割ろうとしました。この皿を割られてしまえばカッパの命はありません。

するとカッパは目に涙を浮かべて、「どうか今度だけは勘弁してください。私はこの池に二度と現れません。」と言いながら、何度も何度も頭を下げました。

若者は、そのカッパの様子を見ているうちにかわいそうになりました。そこで、「お前はこれからどうするのだ。」と尋ねました。

カッパは「ハイ、私は梶の大滝さん(旧旭村の大地主)の屋敷の西側に、倒れかかった大樺があります。そこに大きな穴がありますので、その穴の中へ入って暮らします。この木さえ切り倒さなければ、二度と出てきません。」と言いました。

そこで若者は、「約束を守るんだぞ。もう二度と鵜ノ池へは出るなよ。」と言って、カッパを放してやりました。カッパは、若者の方を振り向き振り向き、さもさも嬉しそうに梶の方へ走り去っていきました。

そしてそれからというものは、鵜ノ池にカッパが出なくなりました。昭和35(1960)年ごろまでは、梶の大滝さんの大樺がありましたが、いつの間にか切り倒されてしまいました。しかし、カッパは鵜ノ池に出ないばかりか、その消息は沓として分かりません。


のどけの薬

今から約100年くらい昔のことです。上小舟津浜という村に、上新保というあみもとの家が

ありました。

上新保さんと近所の人たちは、毎日のように漁に出掛け、網に引っかかってくる魚を見ては

喜んでいました。

そして、とれた魚の半分は上新保さんに、残りの半分は手伝いの近所の人たちに分けてや

り、生活を成り立たせていました。

ある日のことです。いつものように上新保さんたちは、漁に出掛けていきました。そして、

「今日も、いわしがいっぱいとれるといいなあ。」「おれ昨日、くじらをつかまえた夢を見た

でね。この舟の倍もでっかいやつでね。」と、まじめな顔で話し合っていました。ところが

やがて不思議なことが起こったのでした。

「せぇのお ヨイショ! せぇのぉ ヨイショ!」と、力を合わせて網を引きますが、いつ

もと違って大変重いのです。やっとの思いで網を引き上げてみますと、その中に一匹のすじん

こ(別名カッパ)が引っかかっていました。

気味の悪いすじんこを見て、人々は「殺すか!」「いじめるか!」などと言っていました

が、さすがはあみもとさんです。すじんこを網からといで海へ放してやりました。

そして、その不思議な出来事から時間がたち、夜になりました。仕事を終え、疲れきった体

を布団にあずけ、あみもとさんはいつの間にか眠りに入りました。すると、夢の中に昼間のす

じんこが 姿を現しました。どうやら夢知らせのようです。

「さっきはどうもありがとうございました。そのお礼に、のどけの薬(今の口内炎やのどの

薬)の作り方を教えましょう。 お役に立てればと思います。まず、これとこれを混ぜて、ああ

やって、こうやって・・・。これでできあがります。この薬で皆さんの、 のどを治してやって

ください。」と言って、夢の中から立ち去りました。

あみもとさんは、半信半疑で、その薬を作ってみました。出来上がった薬は、黄色みがかっ

ただいだい色で、ややすっかい粉の薬となりました。そこで早速つけてみることにしました。

薬はのどの奥につけないと効果がありません。そこであみもとさんはいろいろと工夫した

細い竹の先を平らに切り、その先にのどけの薬を載せ、ふっと吹くと、見事にのどの奥ま

でいくことが分かりました。

早速ためしにつけてみると、涙が出るほどしみて、よだれがだらだら出てきてしまうので

す。出てくるなといっても出てくるのでした。しかし、その効果といったらすごいもので

した。魔法にかかったように、みるみるうちに治ってしまうのです。

それからというものは、この「のどけの薬」は大変な評判になり、近隣ばかりでなく、遠く

県外からも買い求め にやってきました。こうなると「のどけの薬」もだんだんと、大量に作ら

なければならなくなり、とうとう元になる薬がなくなってしまいました。

そこで、直江津の薬屋へ行って、6、7種類の元になる薬を買って来て、これを調合しまし

た。作り方は、やげんを用いて、これをすりつぶして粉にし、これをちぎ(はかり)にかけて

計り、一服ずつ盛りつけ、 更にこれを大きな薬にまとめて売るようにしました。

戦争中の昭和17年ごろ、元になる薬が手に入らなくなり、 とうとうこの「のどけの薬」を

作ることをやめてしまいました。